昭和46年08月02日 朝の御理解
御神訓 一、
「神は声も無し、形も見えず。疑えば限りなし。恐るべし。疑いを去れよ。」
恐るべし疑いを去れよ。疑いを去って信心にならせて頂いたら、それこそ恐るべしという程しのおかげが頂けると言う事ですね。どうぞ一つ本当に私は神様を信ずると言う事は、神様のお言葉、神様の教えを信ずる事だと思います。皆さんが日参り夜参りなさいます。信心をなさりよります。けれども、神様の話を聞いて助かる道と仰るのに、その話を良い加減にしたのでは、もうそれは神を疑うとるのと同じ事ですね。
こう言う事ではおかげは受けられませんよ。といわばこう言う事から本当の事に改めて行かねばおかげは受けて行かれませんよと、例えば頂いてもそれを聞いただけで実行しないならば、疑うておるのと同じ事だと思うですね。だから何時迄もおかげを頂かれん。そげなあんた悪いことするならおかげ頂く筈ないよ。それはいっちょ改めなさらにゃ、もう御もっともだと聞きよるけれども。
それを改めないならばまあ言葉でいうならば、あげん言いなさるけどそげんじゃなか、悪いことしい続けとったっちゃおかげは頂よると言うたごとある風な考え方だから改めんとです。それは神様は気永うおかげを下さいます。そしていわゆる神の言う事を信じて貰いたいばっかりに様々な神様は働きをして下さいます。之は信心の無い者だけが神を疑うておる事じゃない。信心頂いとっても疑うておるしるしに神の言う事を一つも聞かんじゃないか。守らんじゃないか。
守ろうと思えばすぐ守れること、改め様と思えばすぐ改められる事ですら、神様の言葉を左右にしておるじゃないか。よくよくその事を思うて見ると、それは本当に神様は本当の事を仰ると思うたらね、改めん訳には参りませんし、改めにゃ馬鹿らしかと言う事になる。おかげ受けたいのですからお互いに。だからそこんところを本気で例えば、難しい改まりであっても、そこんところに焦点を置いて、そこんところを改まらせて下さい、改まらせて下さいと。
今日私体質改善と頂いたのですけども教団自体それが言われております。教会の体質改善と言った様な言葉で、教会の行き方、在り方というものを本質的に変わらなければならん。本質の変わると言う事でもないでしょうけれども、結局本質を反れておるのですね。だから本質に戻れと言う事なのです、いうならば。例えば教会として看板を掛けておって一人一人が助からんというならね。
もう本質から反れているのですよ、その教会は。金光教の教会の本質というのは人が助かる事さえ出来ればその助かりあっていないとするならばそれは矢張り間違うとるから体質改善をさけばなければならない由縁がそこにあるわけです。だから私どもの信心の場合に於ても同じ事、矢張り私自身の体質改善がなされて行かなければならない。神様はねこういう気になるな、こう言う事ではいけんぞ。
こういう工夫になれ、こういう風に心掛けよと、確かに神様はですね例えて極端に言いますとね、悪いことばっかりしよってもです、不思議と神様は御願いをしよると大体おかげを下さいますもんね。だから世の中にはありましょうが、あれ達が金光様の信心しよるげなが不思議でならんと。あれ達がと言われる様な信心が沢山あるです。
信心の無い人から金光様の信心させて頂きゃ成程あの人は金光様の信心しなさるげなが、と言わなけれる様にならぬばならぬ様に教えてあるです。金光様の信心は後指をさされる様な人があるますよね。それでも矢張りおかげは受けておるです。だからそのそういうおかげではいけんと、例えば昨夜の月次祭後の教話を頂きましてもそうでしたね。それだっておかげを頂きよるやはり。
ところがそげなおかげじゃ本当のおかげじゃない。それこそ夢にも思わない様なおかげが展開してくる。それこそここに言ってあります様に疑えば限りない代わりに、それを信じ、それを行じて行くならばそれこそ恐るべしと言う程のおかげが受けられる。それを私の例をもって申しました。あんたそげな根性では駄目よと、あんたそげな心がけじゃおかげ受けんよと、もうその人にそれこそ皆さんが言うでしょう。
今日の御理解は私が頂く御理解、私一人で頂く御理解じゃったと、ほんなことかと思うたらしらごと疑うとる。それは胸にブスブス来よるかも知れん。先生はもうほんなごと見透し、けれども先生が知っちゃなかとこもある。してみるとよい加減のもんばいと、自分自身がね、本気で改まる気にならんとおかげにならんです。そこからね、いわゆる恐るべしと言われる程しのおかげは受けられる。そういう風にしてですね、只一生金光様の御信心を頂いとると言うだけで終る人がどの位あるか分からん。
まあ殆どというたっちゃよか位ですね、御神縁を頂いて居ればその御神縁に依ってです、矢張りお取次の御働きと云うかお取次下さる先生の御徳とか、金光大神の御徳に依ってです、天地の親神様のおかげを受ける事が出来ることは間違いないです。けどもそういうおかげじゃいかん。とそういうおかげじゃ、あの世には持って行かれんと、おかげは。そういうおかげじゃ、この世に残しちゃ置けんと。
しかも只いつも願うだけの信心、頼むことばっかりの信心。成程頼めば聞いて下さったにしても、そう云う信心では同じ事。願うて願い通りのおかげとは大したおかげでは無い。それこそ願い以上にそれこそ恐るべしと疑えば限り無し、だから恐るべしと仰っる。だが信ずれば又それとは反対に恐るべしと言う事になる。信じてそれを疑わない、信じてそれを行ずる。私は今日はそこんところをはっきり皆さんがね。
ははぁ自分は親先生があげんいつもいいよんなさっとる、行じていないとするならですね、私は親先生を信じとるというてもそれは疑うてるのも同じと思うですね。それではおかげにならんです。いわゆる夢にも思わなかった様なおかげ、本気で私どもはですね、ひとつそこん所の体質改善が本気でなされなければいけません。好きなものが嫌いになり、嫌いなものが好きになると言う様な体質改善がなからなければいけません。
遊びごとの好きな人はもう人が遊びよるのを見ると本当にそれこそ、目を反らす程嫌にならなければいけんです。悪いことばっかりしよる奴は本当に善い事ばかり、悪いことばかりしよった時がほんとその事を思うたら身が縮むごとある。おかげで反対に善いことばっかりという位に改まらにゃ、悪いことしてお詫びの印とか何とかいうてから信心する。 成程私は悪いことじゃないと思うです。
人間じゃけん、どういうお粗末御無礼があるとも限らん。そこでですね、御詫びの印にと又一段と信心を進めて行くと、修行でもさせて貰うと言う事は有難いけれどもです、それではね、おかげは受けられん。おかげを受けても恐るべしと言う程しのおかげには、絶対なってこんです、お互いに改めましょう、お互いに本気で体質改善を致しましょうというところです。
そこで夕べ月次祭で申しました様に先月はいわゆる夏季修行と、一月間皆さんあの様な修行が出来られた。その内容として信心倍増という合楽のスローガンの下にあの様な信心修行が出来たが、果して信心倍増になっておったであろうか。之は私自身がとうとう一月間信心倍増とは信心倍増とはと、いいながら一月間過ぎて仕舞ったというお話をしましたね。一人一人に違う、一人一人の信心程度に依って違う。
どこに焦点を置くかと、形の上では一ぺん参ったとは、二へん参る。百円お供えしよったのは、二百円お供えすると言う様に、成程倍増と言う事になるけれども、そう言う事じゃない。そう言う事もそれである。けれども本当の意味での、信心倍増とはどう言う事かと、私は思いに思い、練りに練って一月間来たけれども、とうとう一月間、分からんなりに済んだと。
昨日朝お知らせに頂いた大きな菊の茎を頂いた。菊の花の茎、まあ普通の花の倍位ある様な茎である。それに黒々とした葉が付いて居る。こういう茎ならばどの位立派な花が咲くじゃろうかと云う様な茎である。今迄例えば、小さい一寸真四角位な花が咲きよったが、三寸にも五寸にも開く様な菊の花を付ける為に、先ず菊そのものが大きくならにゃ、菊そのもの根そのものが、それだけ立派にならなければならない。
でも本当のことは分からない。信心倍増、けども結局は煎じ詰めて考えてみるともう全ての事がですね、有難く受けて行くというか、有難い答えを出して行くという行き方以外にないごとある。そしてその全ての事と言う事の内容も触れましたですね。昨日或る子供が兜虫を持って遊んどる。それは随分高く出して買ったものらしい。それで私が昆虫採集しとるらしい。
それで家にも昆虫がおるけんでやろうと、家にはごっかぶりですね、あぶら虫がたくさんいるから、あれを帰りに持って帰らんのと言いたら。それは家にも居ると。あれも昆虫ですからね、矢張り昆虫採集の時あげなと取れば良いのに、あげなとは取らん。何故かと云うと、人間でもそうでしょう。嫌われるとあれはもう、油虫のごとあるというでしょう。人間の嫌われる本当の屑ですよ。
ああ油虫が来たといわれる位に嫌われる。だから同じ昆虫でも採集したい程しの昆虫がある。それは例えていうと、兜虫ちゃ角を持っておるから自分の心の中に角が出ることがある。腹を立てる時なんかは必ず角を出してる時である。けれどもね、そのことは採集に価値がある。その腹立ちというのは値打がある。まあいうならばしかたんなか(つまらぬこと)事には腹が立たん様になったけれども、それこそ神様が腹を立てなさる様な腹の立て方が出来る。
それは夫婦喧嘩なら夫婦喧嘩の事でもよいです。矢張りあれはもうお互いが腹を立て合うから喧嘩になるとですから。けれどもねその事がやりやりやり合うたおかげでこういう事が分からせて頂いたと、その夫婦喧嘩が有難いものになって行かなければ、有難い答えを出す程しの夫婦喧嘩でなければいかんと言う事。但し全ての事を有難くというけれども、腹を立てる事ですから、この事に有難いという答えを出して行く事だけれども、全ての事というても油虫まで大事にしろと言う事ではないと言う事。
人に嫌われる、神様に愛されない。神様が悲しみなさる。そういう浅ましい心、そういう心は油虫を取ってのける様にです、私は本気で改めなければならん。でないとね、恐るべしという程しのおかげになってこないと私はこういうておる訳ですから皆さんが私の言うことを信じて下さるならばです、本気でそれに取り組まねばならん筈です。そうでしょうが。ところが先生はあげん言いなさるばってん、と言う様な心で受けておるから、いつまでたっても改まらん。
それはどう言う事かというと先生を疑っとる。神の言葉を疑うとると言う事になるのです。神は声もなし、形も見えずというところはです、例えばそこを先生が言う様に改まらんでんおかげは受けとると言う事になるのです。それには神様はあんた此頃教えた事は改まっとらんの、もうおかげはやらんばいとはいわっしゃらん。改まっとらんでん、願うと又おかげを下さる。声もなしですから私どもがですね。
本気でたとえば御教えをなかなか簡単に本気になっても本気になっても、もう本当に之は癌じゃろうかと思う位にね、根強いものもあります。けれどもね、それぞれに取り組んどりますと云う姿勢だけは見えにゃいかんですよ。もうこの位の事なら自分が改め様と思うたらすぐ改められる事もありましょが。そう言う事を沢山ぶら下げて一生を終らんならんと言う事は悲しい事です。
そういう事を改まっただけでも、私はね体質改善になると思う。沢山の人が私の話を聞いて下さいます。成程よかこつ言うなあと尤な事だと、そこまでは皆聞いて下さる様ですね。私の話はけれどもね、それは只聞いて居るだけ、成程聞かんよりかよか、けれどもそれを聞いて本当に行の上に表そうと、でなかったら本当のおかげは受けられんよと私は言うておるから、それをそうですねと信じてですね、それを取り組む事なんです。だからそれに取り組まない人は。
私が言いよる事を疑うとると言う事になるのです。先生はああ言いようんなさるけれどもと言う事になるのです。私は今日は全ての事を有難く受けると言う事をです、理屈を付けるとこげな事でも矢張り頂かにゃならんのですかと言う事がありますね。だからそこんにきはよう考えねばいけんですね。私は今日お祭りを済ませてから菊栄会の方達が三、四人で私がちょっと用事もございましたから、ちょっと待って貰って、今丁度奈良からお客人が来とりますから、部屋で色々とお話を致しましたことです。
私が少し遅れましたものですから、もう話がありよった。どう言う事を話よるかというとですね、その奈良のお客人を連れてから、こう熊本から別府そしてこう回ろうと、それも冷房車の車を三台なら三台、お互いの車を持って、そして遊びに連れて行ってやろうとこういう様な話。まあ私としてはこげん嬉しい話はないです。御信者さんが自分の車を出して、しかも自分がお金を出して。
けれども後でよくよく考えて、けれども私はそれがどんどん話は進めよるばってん、さあお客さんを前にしとりますから、そんなことは止めんのとは言えん訳です。皆さんが一生懸命話とりますから、何の為にこの人達はそげなことをせんならんじゃろうかと思いました。まあ例えていうなら、それは連れて行くことも良い。けど行くならですね、いうなら他人混ざらずと言う事がありますから、例えば姉の為なら家内が付いて行くとか、子供が来とりますけん子供の為には。
栄四郎なら栄四郎を連れてやるとか、又若夫婦達もおりますから、まあそれには愛子か若先生かどっちかで、その位でもっとらあと私は別府行きも良かろう、熊本行きも良かろう。私はしたらどの位だから自動車だけは提供しますから行って下さいという位ならまあ、私は分かるばってんが、さあ一晩泊まりと云えば大変なお金も掛かることでしょう。それは自分どもが出すのじゃから良いのですけれどね。
私は今日はそう言う事も含めて思いますね、例えば本当にそれがね、神様が喜んで下さると言った様な事であるならばね、それは幾ら掛けたっちゃ構わんです。例えば皆の気持ちの中にもこの頃奈良に行った時にお世話になったけんでという気持ちがあったらですね、その程度のことでお返しをしたらよいのです。過ぎるそう言う事もですね、私は改めて行かなければいけんと思う。
だから昨夜よく考えてからこの計画はひとつ元に戻して頂こう、本人にいう訳にはいかん。けどもまあ内々で行こう。だからまあ例えていうならば文雄さんがあちらに商用もあると云いよったから、文雄さんの車に乗せて貰うとか、高橋さんが私はおつでも良いですよと乗り気になって下さるから、出来るなら高橋さんの車を一台借りるとか、又三男さんが来とったから、車は最高の車を持っとりますから、車だけはどうぞお使い下さいと言う様にいうてくれるならそれを借り様かとその程度のことでね。
これは改めて行かねばと私は思いました。何故かと最後に有難うと言う事にはならんです。それはそうでしょうが。私は昨日からいいよることはね、全ての事が答えに出て来てですね、有難いと云う言葉が出て来る様な事に改めて行けというのです。それは例えば、五人なら五人の人が中には一人位そげん金かけんでんと中には思う人が有るかも知れませんよ。それでも一緒に行っとれば誘わん訳にはいかん。
そういう義理とかはりとかいうのではなくて、本当に答えが有難いという答えが出ることをもってして、行くと言う事がそれに焦点を置いておかげを頂くことが私は之は私の信心倍増だと。そう言う事は今迄も思いもし、いうてもきたけども、もっともっとそれを倍の働き倍の力をもってその事に取り組むと言う事です。成程それは奈良のお客さんが喜ぶと言う事よりも、こげんすれば親先生が喜んで下さるけんという気持ちも私はよう分かる。けれども私は実際は本当は喜ばんです。
有難いという答えになって出て来んもの、そう言う事じゃ。そういう意味に於て全てを有難いという答えが出ることの為にですから、一生懸命思わなければいかん。考えてみればいかんと言う事がわかるでしょうが。実際全てが有難いとじゃけん。さあ有難いそのへんはよくへ理屈云うです。よく、でもこのことを聞くとちっとは分かるでしょう。油虫的なものは絶対頂くよりむしっていかにゃいかん。
いらんことに金を使うと言う事にはです、只義理やら人情でと言った事ではです、いよいよ幹を太うして行かなければいけん。そしてそれは改めて行く改善して行く。そういう行き方は何とはなしに合楽の行き方はそうつまらん所に派手なことをする。そういう性根が私の中にあるのですねきっと。ですからそう言う事になって来るのです。ですからそういうところはよくいっちょ考えてこれから、果してこれが本当に親先生が喜んで下さる事か、果してこれは神様の喜んで頂ける事かと言う事にならんとです。
それが終った後に有難いなあと、有難かったねえと云うことになって来ない。有難いと云う答えを出して行こうと云う事なんだ。どうぞ今日は皆さんも長年合楽で信心させて頂いて、云うならば親先生が仰ることは神様のお言葉としてと皆さんもいうておる、私もまたそれを確信を持って皆さんに話して居る。だから私のお話を聞くときに態度が悪かったっちゃ、私がここからじっとにらむ訳です。
私の話しじゃない。神様のお言葉を私が只傳えておるのだと思うから、お粗末な頂方をしてはならんと云う訳なんですけれど、そういう頂き方が出来ておるにもかかわらず、私は本当にそれを本当に疑うてはいないかと、疑う言葉をもってするとちっとは当たらないか知れんけど、本当に信じていないと言う事になります。本当に信じとるならもっと改まる姿勢が見えなければいけん。そげな事じゃおかげを受けんよと、それこそその人に当て付ける様にしていわば、お話をさせて頂いとるのだから。
又自分もほんに今日先生が私に当て付けなさったっちゃろと思う位に頂きよるというのだから、それでも改めんでおかげを頂くと思うとるもんじゃけん改めきらん。それを改めなければ限り無し、恐るべしと仰るが疑えば限り無いと、だから限りなく反対にですよ、おかげを受けて行くこと。それこそ恐るべしという程しのおかげが展開して来る程のおかげを頂く為にいよいよお互いがね。
そういう今日まで私どもが信心体験して御教えに対して頂いてきた頂方をです。改善して行く、そこから本当の意味に於いての体質改善が出来たらです、そこから不思議に不思議にです、今迄嫌いなものが好きになり、好きなものが嫌いになる。勿論これは好きなものが嫌いになると言う事は遊び好きなものが止められんというそれなんですよ。そういうこげなものが好きじゃおかげにならんと言うた様なものが。
これだけは信心させて頂くならば、好く様にならにゃいけんと思うても、虫が好かんというてそれを排斥する。人間を軽う見なと仰るのに、あの人間は好いとるばってん、この人間は好かんとはっきり軽蔑したり、又は反対により以上に大事にしたりする。そういう様な事がですよ、いわば嫌になるというのですよ。そしておかげを頂く方の頂方やら思い方やらをです。
今迄はきついとかしるしいとかが反対に、楽しうなり有難うなるという意味なのである。好きなものが嫌いになり、嫌いなものが好きになるという程しの、おかげを頂いた時に、私は本当の意味に於いての、体質改善が出来ると思うのです。私共があまりに偏食して来た様な感じがする。あれもこれも有難く頂かせて、貰えれる信心になりたいと思う。そして本気で信じて、それを行じさせて頂くことに、有難いものが感じれる信心にならせて頂きたいと思う。
どうぞ。